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アイテム詳細

村岡 博

岩波書店

カテゴリー:Book

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税込価格:¥ 420  (定価:¥ 420)

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カスタマーレビュー

本質的な芸術論  (2008-11-23)
 岡倉天心(覚三)の生涯の仕事の半分は、アジアの芸術に見向きもしない西洋人に対し異議を申し立て、東洋的美意識の何たるかを懇切丁寧に解説することに捧げられた。だから天心の主著である『東洋の理想』、『日本の目覚め』、そして『茶の本』はすべて英語で書かれ、欧米で出版されたのである。
 そしてもう半分の仕事は、文明開化とともに芸術の心得を失ってしまった明治の日本に、真の美意識を復興することであった。ちなみに天心が設立に尽力した東京美術学校は、現在の東京藝大美術学部である。

 本書は基本的に、茶道の歴史とその背後にある道教・禅の思想、茶道に欠かせない生け花(華道)の美学、そして茶室の建築哲学などについて論じたものだ。テーマははじめから限定されており、分量も少ない。しかし本書には、我々が「芸術」一般について論じる際におそらく欠くことのできない重要な論点が、高い密度で詰め込まれている。

 天心は、茶道の芸術性を讃える際に、「生活」と「芸術」の一体性を強調する。天心によれば、茶道における「生活」と「芸術」の一体性は、道教と禅の思想に由来するらしい。
 「茶道いっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである」(p.50)。そして日常の生活の中にも、「われらに認めたい心さえあれば完全は至るところにある」(p.84)のだが、そのことに気づく者は少なく、「名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている」(p.65)というわけである。

 また逆に芸術そのものも、生活と密接に交わるものでなくては意味をなさない。「茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である」(p.84)ということだ。たとえば萩原朔太郎や石川啄木など、似たようなことを言っている芸術家は多い。

 これらの芸術家が言おうとしたのは、芸術作品を「芸術作品」として特別に扱い、人間の「生」の文脈から切り離してしまうことが、芸術の本質に反するのだということだ。言い換えれば、芸術(作品)というのは“客観的対象”として取り出すことのできないものであり、それが生活の中に入り込み、生活がそれの中に入り込むことによって初めて成立する営みだということである。

 「われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する」(p.65)と天心は言う。芸術作品は、「存在」するために鑑賞者を必要とする。と同時に鑑賞者は、芸術を通じて開示される「世界」を自分の居場所として発見することによって、初めて真の意味で「存在」することができる(これは音楽や文学の場合を考えると分かり易い)。この、芸術と存在をめぐる循環の中に正しく入り込むことによって、真の美意識は成就されるのであり、ついには「彼(芸術愛好者)は存在すると同時に存在しない。……彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている」(p.67)という境地に到るのである。

 ところで、天心は繰り返し芸術作品の「不完全性」を讃えてもいる。たとえば、茶室の建築は「『不完全崇拝』にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させる」(p.51)ところに美的な趣があるのだと言う。
 先に言ったような「循環」に入り込むことが芸術鑑賞の本来的な形式であるとすれば、そもそも作品それ自体を“客観的対象”として取り出したときには、未完成であるに決まっている。鑑賞者と一体化して初めて芸術作品は作品として成就するからだ。
 だから、天心が言うところの「不完全性」は、平凡な意味で“何かが欠落していること”と解釈するのではなく、作品が鑑賞者を吸い寄せる神秘的な“力”の別名だと考えたほうがいい。「何物かを表さずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。」(p.46)というわけである。

 以上のような芸術の本意を文明開化後の日本人が一斉に忘却し、芸術の味わい方を見失ってしまったことを天心は嘆いている。「過去がわれらの文化の貧弱を哀れむのも道理である。未来はわが美術の貧弱を笑うであろう。われわれは人生の美しい物を破壊することによって美術を破壊している」(p.71)と。
 日本人の創る作品は、「西洋」の無批判な模倣か「古典」の無反省な反復でしかなくなった。そして鑑賞者も、芸術を芸術として鑑賞する心構えを失い、「数世紀前、シナのある批評家の歎じたごとく、世人は耳によって絵画を批評する」(p.70)といった有り様になってしまったのである。

 「未来はわが美術の貧弱を笑うであろう」と天心は恥じたわけだが、天心の見た「現代」は未だに続いているのかも知れない。

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茶の本ではない  (2007-09-04)
まあ、日本を代表する文化の一つとして「茶」という言葉を使ったのだろう。
日本がヨーロッパ列強に肩を並べるために、日本の文化を紹介する。
そのためのパンフレットみたいなものである。写真はないが
しかし、話が行ったり来たりでこのまま英文で訳されても、外国人には理解不能だろう。
この書き方からすると、あたかも大中華圏に影響を受けた周辺国家のような
イメージを与えかねないだろうな。

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生の術  (2007-05-09)
 「死の術」である「サムライの掟(武士道)」に対するものとして、「茶道」を「生の術」として捉えており、「道教」や「禅道」よりの影響を指摘しつつ、その「相対性」に着目しているのは、西洋の「絶対性」を意識してのことだろう。特に「禅道」と「茶道」のつながりについて詳細に述べられており、両者に共通するものとして「素朴・簡素」「純粋主義」「卑俗からの自由」「審美主義」などの言葉が用いられている辺りは、西洋文明を意識しすぎているように感じる。

 現代でも充分通用する、「茶道」を中心とした芸術一般に対する鋭い考察は非常に興味深いが、西洋文明に対する反発と同時に西洋化の波に逆らうことができない挫折感が随所に見られ、ある意味懐古主義的な雰囲気が漂っている。本書の最後を飾る「利休の死」が、「日本文化の終焉(=西洋文明の旋風)」を象徴しているように感じるのは気のせいだろうか?

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タイトルに惑わされないように  (2006-12-01)
「茶の本」というタイトルは、とくに若者にとって魅力的なものではない。かく言う私も高校時代に今は亡き教師から熱弁をふるわれたが、このタイトルではどうもピンと来なかったという記憶がある。
本書『茶の本』は、茶の本ではない。欧米人に日本文化を理解させるためには、まず彼らの気を惹かねばならない、そのためにとられた戦略からこのタイトルとなったと思われる。これは決して茶の本ではないのである。
本書は東洋の美意識、わけても日本の空間的美意識の奥深さを伝えて余すところがない。これは天心の同時代人である漱石の、とくに『草枕』に通ずる美意識でもある(すみません、この指摘は、ちくま新書『法隆寺の謎を解く』の終章、「日本文化の原点に向かって」のなかでで武澤秀一さんがいっていることの引用です)。
西洋化とのあいだでゆれた明治時代、これほどまでに東洋、日本の文化価値を知りぬき、そして主張した真の国際人の声に、まずは謙虚に耳を傾けたい。

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岡倉天心が書いたから名著  (2004-03-13)
岡倉天心が茶の人生哲学を説いた本.
原書は英文で書かれている.
西洋人に,お茶という題材を使って,日本文化を紹介するのが目的だったようだ.
だから,お茶周辺の日本文化をざっと総括したような印象を受ける.

お茶の起源,入れ方の薀蓄から始まり,
お茶と道教,お茶と禅の関係を説明,
お茶の芸術性について論じている.

もっとお茶について突っ込んだ説明があってもよさそうなものだが…….
第六章「花」は,お茶とは関係ない,ほとんど叙事詩.

花伝書が能をやる人のバイブルなら,
この本は,お茶をやる人のバイブルかな.

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