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中央公論新社
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カスタマーレビュー ![]()
オレ様化した教師たち
(2008-06-14)
要するに「ベテラン教師」による学校弁護&親子批判の本。
この手の本は決まって特徴がある。
学校の内部から社会を見て、それをわかった気になっていること。
子どもよりも自分たちが行っている教育こそが大事なのだと考えていること。
教育の混乱は柔軟性の欠けた学校制度を中心にしてしか子ども・社会を見ることが出来ない教育者たちと、学校に入れておけばまともな大人にしてくれるのだ、と思い込んだ自称常識的な大人たちによってつくられてきた歪みである。

オレ様化しているのはだれだろう
(2008-05-19)
オレ様化しているのは子ども達だろうか?
子ども達に大勢の中の「私」という認識は無く,唯一の「この私」という認識に生きている。これが著者の言う「オレ様化」である。そこでは「この私」を批判する,「この私」相対化し共同体の中での生きかたを教える教師の指導など受けるはずが無いというのが著者の主張である。
しかし子ども達は本当に「オレ様化」しているのだろうか。私はしていないと思う。子ども達は,「この私」などすでに相対化しており,共同体をも相対化している。子ども達にとって,共同体は自身の生活を規定すると同時に変革の対象でもあるのだ。
著者は,共同体の中で生きるということは,「この私」を俯瞰的に捉え,自分以外の「この私」が存在することを認めることであると主張している。この主張には異論は無い。だが共同体の中でより良く生きるためには,共同体を俯瞰し,共同体をも相対化し,共同体の問題点を改良する必要がある。著者にそれができているとは読み取れない。むしろ,共同体と「この私」を同一視することによって,「この私」を相対化できていないように感じた。そのような著者にとって共同体を相対化した子ども達の存在は,著者の「この私」に相対化を迫るものである。著者はこのような子ども達の存在を容認することができず,共同体,つまり著者自身の「この私」に従うことを要求する。これは,村上龍氏が中学時代に納得できない規則に反論した行為を,「軟弱な文学青年」「屁理屈」と述べている点からも読み取れる。このような視点で著者の主張を捉えると,本書の子どもに対する批判の多くが著者にも当てはまるのである。
「この私」を相対化できずオレ様化しているのは一体だれであろうか。

等価交換の衝撃
(2008-04-30)
子どもが変わった・・・
昨今よく言われる言葉である。ではどのように変わったのか、いつ頃から変わったのか。
そしてもっとの重要なことはどのように対応していくのか。
プロ教師の会代表として、長年現場で子どもたちを見てきた著者が豊富な経験と深い見識を基に教育の実情を分析し、あるべき姿を追求しているの本書である。
子どもたちが変わった最大の要因。
それは消費主体としての個を確立していることである。消費の主体としての個は金銭と商品を等価交換する。同じ額の金銭であれば誰が持っていようと同じ価値を持つ。たとえ子どもであっても。そのようにして個を確立した子どもたちは学校においても等価交換の原理で望む。
しかし、等価交換には重要な問題がある。
交換するには価値を知ることが必要なのである。価値を知らなければ交換の代償を計り得ない。そして教育というものはそもそもその時点でで価値がわからないから意味があるとも言える営為である。そこで子どもが代償として提示できるものは不快感だけである。自分の時間と労力の代償として不快感を表出するという分析は衝撃的であった。
教育の持つ贈与という前近代的な部分が消費社会とは相容れないのである。
では教育はどこへゆくべきなのか。
これだけ教育を巡る混沌が深まる現在、教育の再定義が要請されているように思える。
本書にはその処方箋の一つが記されているように感じた。

学校共同体の再生
(2008-02-05)
まずは一節を引用する。
「よく教師の指導力や質が低下したと語られる。だが、いつの時代でも教師の力とは絶対的なものではない。教師の権威や指導力というものは一人ひとりの教師が独自に所有しているものではなく、子ども(生徒)の「学ぼう」「従おう」「自己を高めよう」という姿勢や意欲に支えられ、反応しあって発揮されるものなのである。そして教師と子ども(生徒)の教育的な信頼関係も教師のAさんと生徒のB君との個別的な関係によって成り立つというよりは、まず第一は子ども(生徒)たちが社会をどのように信頼しているか、第二に親をふくむ大人たちが教育や学校をどう認知し、位置づけているか、それがどのように子どもたちに伝わっているかにかかっている。」(15頁)
内田樹『下流志向』で、肯定的に引用されているので読んでみた。本書の指摘でおもしろいと思ったのは、教師と生徒の関係を一対一の関係として捉えるのではなく、生徒の背景にある共同体をふくみ込んで理解しようとしている点である。親が教師をばかにしていたら、その家の子どもが教師に対して敬意を持つはずがない。親と同様に、どこか教師をばかにした姿勢を持ってしまうことだろう。このような視点から、個人の利害がむき出しに主張されるような場(学校)ではなく、敬意と協力関係の生きた場(学校)の再生を著者は望んでいるようだ。その実現には多くの議論と実践が必要だろうが、この方向性には一票を投じたい。

あえて読むには価しない
(2007-07-22)
よい教育は「厳しく」かつ「のびのび」しているものであり、両方の側面を持つべきである。前者は生徒の「社会化」に寄与し、後者は「個性化」に寄与する。また「社会化」は「個性化」に先行して行われなければならない。キリスト教のような絶対的参照軸を持たない日本において、十分に「社会化」する前に、グローバリゼーションの波にのまれ消費主体としての「個」を確立して(させられて)しまっている子どもたちに教育を施すにあたっては、ますます子どもたちをどう「社会化」させるかが重要になっている。
以上が私が読んだ限りにおいての本書における著者の主張。特に異論はない。
が、これだけのことをいうために、生半可な精神分析用語を使ってみたり、紙幅を費やして宮台真司、和田秀樹、上野千鶴子、尾木直樹、村上龍、水谷修各氏に批判を加える必要も特にないように思う。後段の6氏への批判部分は、それぞれの論者の主張、もしくは俎板にのっている論文あるいは書籍に通じていないと面白く読めないし、説得力も感じられない。
村上龍について著者は、「教師やおとなたちの共同体的な規範意識や倫理観によって統制されたからこそ」文学的な感性を開花させることができたのであり、そうでなければ「軟弱な腑抜けの文学好きがひとり誕生しただけであったかもしれない」と想像している。ちょっと面白い想像ではあるが、私は村上龍が社会化した(してしまった)のはむしろ芥川賞をとった後ではないかという気がしている。著者はおそらく『限りなく透明に近いブルー』は読んでないのではなかろうか、そして村上龍がどんな格好で芥川賞の授賞式に臨んだのかも知らないのではなかろうか。(もちろんそんなこと知らなくたって一向に構わない。)
もっとも共感できたのは水谷修について語られた部分だが、それでもいっていることは、あの人はああいう人なのだ、もはや教師ではない、ということに終始し、なぜ「このやり方は水谷氏のみに許されたやり方であ」るのか論理的な説明はなされていないように思う。
著者の教師としての経験から興味深いエピソードもいくつか紹介されているが、具体例をあげた説明には消極的で、あえて観念的に論を進めようとしているのが本書の最大の欠点だろう。他人の論文に依拠するのではなく、具体的事例を元にした方が著者の主張はより説得力をもって述べられたはずだ。著者はおそらく大まじめに、「ことによると、八十年代中葉以降の『オレ様化』した新しい子ども(若者)たちは」「『マルチチュード』の一翼を構成しているのかもしれない」と注記しているが、『<帝国>』を読んでもいない私がいうのも何だが、ギャグとしか思えない。(しかも笑えない。)
その意味で、本書の瑕疵は著者自身というよりも、むしろ編集者に帰せられるべきものと思う。

